チャプレンメッセージ「悪口を言わない」

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新入生オリエンテーション開会礼拝奨励「悪口を言わない」

菊地 順 チャプレン
菊地 順 チャプレン

マタイによる福音書5:21-24

 皆さんの多くは、入学して初めてキリスト教に触れることになったのではないかと思いますが、皆さんは、キリスト教に対してどのようなイメージを持たれているでしょうか。中には、キリスト教って難しそうだ、あるいは堅苦しいといったイメージを持たれている人もいるかもしれません。しかし、決してそうではありません。今日は、そのことを少しお話ししたいと思います。

 キリスト教とは、平たく言えば、たとえば、人の悪口を言わないことを大切にする宗教だと言っていいと思います。おそらく、皆さんの全員が、今日家を出る前、何度も何度も鏡を見てきたのではないでしょうか。鏡を見て、ヘアースタイルを整え、服装をチェックし、何度も何度も自分自身を確認して大学に来たのではないでしょうか。おそらく、鏡を見ないで大学に来た人は一人もいないと思います。すべての人が、鏡をとおして自分自身を見つめ、自分を振り返り、自分について考えてきたと思います。ちょっと余談ですが、ラテン語で「鏡」のことを「speculum」と言いますが、ここから「深く考える」という言葉が生まれました。それは、英語では「speculate」という言葉になっています。人間は、鏡をとおして、深く考えるのです。皆さんもそうではないでしょうか。朝、鏡を見て、自分のヘアースタイルや服装のみならず、自分のコンディションや気持ちまで考えたのではないでしょうか。そこには、鏡に映る自分自身を見つめる眼差し、視線があります。それは、自意識であり、また自分を大切に思う思いです。それはまた、人からよく見られたい、よく思われたい、また尊敬されたいという思いです。それは、誰でもが持っている意識です。そして、それはとても大切なものです。というのも、それなくしては、人間は人間として形成されることはないからです。そういった自意識を持つ主体を、少し堅苦しい表現で言えば、「人格」といいます。すべての人は、そうした人格を持った存在なのです。そして、その人格が十分尊重され、守られることが大切なのです。なぜなら、そこに人間の尊厳があるからです。キリスト教は、その人格を大切にする宗教なのです。そして、そのことをもっと平たく言えば、人の悪口を言わないということなのです。

 先ほど、聖書の言葉をお読みしました。これは、イエス・キリストの語った言葉ですが、初めに、こう語られています。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」。これは、ユダヤ教の教えについて語っているもので、ユダヤ教では、「殺してはならない」と教えられていました。そして、もし人を殺したならば、裁判を受けなければならないと定められていました。そして、その判決は死刑でした。しかし、ここでイエス・キリストは、その教えに対して、もう一つの新しい教えを語るのです。こう語っています。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。この教えは、人を肉体的に殺した者だけではなく、人に腹を立てる者、人を「ばか」と呼ぶ者、あるいは人を「愚か者」と呼ぶ者、つまり、精神的に相手の人格を否定し、踏みにじる者も、同様に裁判を受けなければならないというのです。すなわち、人を肉体的に殺した者と、同罪であるというのです。これは、なかなか厳しい教えではないでしょうか。肉体的な殺人だけではなく、精神的な殺人も、同罪だと言うのです。

 しかし、考えてみれば、これは、むしろ当然のことではないでしょうか。人間は肉体において存在しているだけではなく、精神においても存在しているわけですから、その両方が十分重んじられることが不可欠なのです。しかし、現実においては、しばしば、その精神面が忘れられてしまうのではないでしょうか。そして、人を殺すような言葉が平気で語り出されているのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストは、それは肉体的に人を殺すことと同じであると語ったのです。そして、キリスト教は、この教えを大事に考えたのです。具体的には、人の悪口を言わないことを心掛けてきたのです。

 しかし、この小さな教えを守ることは、決して簡単なことではありません。人間は、ついつい人の悪口を言ってしまうものです。特に、自分の心に不満があるとき、人は得てして人の悪口を言うことによって、それを解消しようとします。そのことを思うと、悪口を言わないようになるためには、悪口を言わないと心掛けるだけでは足りないのです。それ以上に大切なことは、心が満たされることなのです。心が満たされている人は、人の悪口を言わないものです。そもそも、言う必要がないのです。人の悪口を言って、不満を解消させる必要がないからです。

 それでは、どうしたら、心が満たされるのでしょうか。ここで、もう一つ、イエス・キリストが語った言葉を紹介したいと思います。それは、こういう言葉です。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」。目というのは、体のともし火のようだと言うのです。そして、目が澄んでいれば全身が明るく、目が濁っていれば、全身が暗く感じるというのです。確かに、そうではないでしょうか。目が澄んでいる人は明るく感じます。それに対して、目が濁っている人は、どれほどおしゃれをしていても、何となく暗く感じるものです。ここでは、目が澄んでいる人と目が濁っている人のことが対比されていますが、それは、そのまま、心が満たされている人とそうでない人に当てはまるのではないでしょうか。心が満たされている人の目は澄んでいる、逆に心が満たされていない人の目は濁っているのではないでしょうか。それは、なぜでしょう。面白い事に、ここで「澄んでいる」と訳されている言葉は、元々の言葉に立ち返ってみると、それは「一つ」という言葉なのです。新約聖書は、元々ギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語では、一つという言葉が使われています。あなたの目が一つであるならば、あなたの全身は明るいと言われているのです。目が一つであるというのは、目が一つしかないということではありません。そうではなく、それは、一つのものを見つめる目のことなのです。自分に与えられている恵みを一心に見つめる目が、一つの目と言われているのです。そして、そうした目は澄んでいるというのです。逆に、二つの目になると、濁ってしまうのです。それは、あっちこっちを見て、あれがいいか、これがいいかと迷いだす目のことです。そして、自分に与えられている物よりも、人に与えられている物の方が良く見えてしまい、疑問や不満や妬みを覚える目のことです。そして、そうした目は、心が満たされないのです。英語で「疑う」という言葉はdoubtと言いますね。これはdoubleという「二」に関係する言葉から生まれたものです。ドイツ語でも同じです。ドイツ語で「疑う」という言葉はZweifelnといいますが、このZweifelnのzweiとは「二」という意味です。二つの目を持つことから疑いが起こり、そこからねたみや不満が生まれるのです。大切なことは、自分に与えられている恵みを見つめることなのです。一つの目を持つことなのです。一心に見つめる目を持つことなのです。そのとき、わたしたちの目は澄んでくるのです。そして、心が満たされていくのです。

 皆さん一人ひとりは、大きな恵みを受けて、今生きています。あまり、そうした意識がないかもしれませんが、しかし、そうではないでしょうか。今あるものは、すべて与えられてあるものではないでしょうか。聖書にも、すべては神から与えられたものであると記されています。わたしは、皆さんが、本学に入学し、キリスト教に触れる中で、そのことを知っていただきたいと思うのです。そうした自分に気づいてほしいのです。そして、そうした恵みを深く見つめる中で、心が満たされ、澄んだ目を持ち、感謝の心を持って生きてほしいと思うのです。そして、ただ人の悪口を言わないというだけではなく、一人ひとりの隣人を大切にし、自分のみならず他者にも配慮できる人として、豊かに成長してほしいと思うのです。そして、そのためにも、大切なことは、鏡を見ることなのです。それは、ガラスの鏡だけではなく、イエス・キリストという鏡を見ることなのです。イエス・キリストという鏡をとおして、自分自身を深く見つめ、また考えることなのです。そして、それが、聖学院大学の生き方でもあるのです。


(2013年4月5日)