チャプレンメッセージ「ただで受けた恵み―ボランティアの精神―」

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全学礼拝奨励「ただで受けた恵み―ボランティアの精神―」

菊地 順 チャプレン
菊地 順 チャプレン

マタイによる福音書10:5-15

 今日の聖書の箇所で、主イエスは、「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」と語っています。主イエスは、十二弟子を伝道に派遣するに当たり、弟子たちに、神の国を宣(の)べ伝えることに加えて、「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ」(8節)と命じられました。これは、普通の人間には到底できることではありません。一体誰が、病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人を清め、悪霊を追い出すことができるでしょうか。それは、正に、神にのみ属する力です。そしてそれは、地上では神の独り子なる主イエスのみが持ちえた力でした。その力を、主イエスは、弟子たちにもお授けになったのです。ですから聖書は、それを「権威」と呼んでいます。伝道に派遣されるに当たり、弟子たちは、そうした権威を与えられたと言うのです。そして、そうした権威ある力を奮うに当たって、「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」と語られたのです。


  この言葉は、マタイ福音書にしか記されていません。派遣の話は、マルコ福音書にもルカ福音書にも記されていますが、この言葉は記されていません。マタイは、意識してこの言葉を記したのです。それに加え、マタイ福音書で語られている主イエスの言葉は、大変厳しい内容になっています。こう語られています。「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな」。マルコ福音書では、杖と履物を持つことは認められています。また「下着も二枚は着ないように」と命じられています。しかし、マタイ福音書では、「二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな」というのです。ですから、これは非常に厳しい内容と言えます。そして、この徹底した厳しさと、「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」という言葉は、実は深く連動しているのです。


  なぜマタイは、これほど徹底して語ったのでしょうか。そこにはいくつかの理由が考えられます。たとえば、ユダヤ教からの迫害とか、教会内部での腐敗といったことが考えられます。しかし、おそらく、そういうことだけではなかったと思います。むしろ、もっと本質的な点で、マタイはより徹底的に語る必要性を感じたのです。またその必然性を見ていたのです。それは、何よりも、「ただで与えなさい」の「ただで」ということにおいて、弟子たちは主イエスと一つになる恵みに与(あずか)ることができたからなのです。


  「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」。改めて言うまでもなく、弟子たちが授けられた権威はただで与えられたものです。しかも、それは、ただで与えられるという仕方においてしか、受けることのできないものでした。たとえどれほど財産があったとしても、またどれほど優れた能力があったとしても、それは、到底買ったり、自分の努力で得たりすることのできるものではないからです。病人をいやし、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出す力は、お金や人間の能力といったものを完全に超えているものです。それは、どこまで行っても、「ただで」しか受け取ることのできないものなのです。そして、その「ただで」というところに、主イエスと弟子たちとの本質的な関係があったのです。主イエスが与え、弟子たちが受け取るという、決して逆転することのない関係があったのです。


  マタイ福音書は、そのことを踏まえ、だから「ただで与えるがよい」と命じるのです。そして、それこそが、特別の権威を「ただで」受けた者の唯一の応答の仕方なのです。またそのことが、さらに具体的に、「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな」という言葉となって語られているのです。というのも、ただで与えるというのは、必ずしも、お金や報酬を受け取らないということだけではないからです。むしろ、主イエスが「ただで」与えてくださったその関係をはっきりと示すために、主イエスに対する全面的な信頼を表すことでもあったのです。それが、「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな」という戒めとなって語られているのです。ですから、この徹底した貧しさ、伝統的にはそれは「清貧」と呼ばれてきましたが、その清貧において、弟子たちは、主イエスの真実の弟子として自分たちを表し、またその清貧において、主イエスとの真実の関係を守ったのです。そして、この徹底的な「ただで」ということにおいて、弟子たちは主イエスの真実の弟子となったのです。


  ところで、日本語で「ただで」と言われますと、真っ先に念頭に浮かぶのは、無料であるということではないでしょうか。お金が全くかからないということです。しかし、それが、ここで言われている言葉の真意なのでしょうか。実は、英語の聖書にも、この日本語と同じように、without payment、すなわち「支払うことなしに」「無料で」と訳しているものがあります。しかし、この「ただで」と訳されている元々の言葉は「賜物として」という言葉です。賜物として受けた、ということなのです。英語で言えば、as a giftです。そして、賜物とは「与える」という動詞から来ていますから、それは「与えられたもの」として、ということでもあるのです。したがって、「ただで」と訳されている言葉は、単に無料でという意味ではないのです。この言葉を、多くの英語の聖書は、最も権威あると言われているKing James Versionも含めて、freelyと訳しています。すなわち、「自由に」ということです。そして、この「自由に」という言葉には「喜んで」という意味もあります。もちろん、英語のfreeという言葉には、「ただ」とか「無料」という意味がありますから、そうした意味で「賜物として」という言葉をfreelyと訳すことはごく自然のことであると思います。しかし、それ以上に、このfreelyという言葉は、その本来の意味で用いられているのではないでしょうか。つまり、単に「無料で」ということだけではなく、「自由に」「喜んで」ということです。人間生活を取り巻く如何なる利害にも捉われることなく、そういったものから完全に自由になって、主から受けた恵みを人々に喜んで分け与える、そういった自由と喜びが語りだされている言葉であると言っていいのではないかと思います。


  ところで、今日の聖書の箇所は、権威という特別の力をめぐっての話ですが、そうした力だけではなく、わたしたちの存在そのものが、そしてまた、わたしたちの持っているものすべてが、神から与えられたものであるとも言えるのではないでしょうか。わたしたちは、ただで、神の全くの自由な思いの中から、一つ一つの恵みをいただいているのではないでしょうか。そして、その恵みを、ただで、何の打算も計算もなく、喜んで人々に分け与えることができるとき、わたしたちは、ただで与えられた神との関係を守り、それを真実に示して行くことになるのではないでしょうか。そして、そうした生き方こそ、わたしたちに神がおられることを証しすることにもなるのではないでしょうか。そうであるとすれば、大事なことは、「自由である」ということなのです。


  パウロが言うように、わたしたちが持っているものは、すべて神から与えられたものなのです。それを、あたかも、自分が獲得したかのように、自分の当然の持ち物として考え出す時に、人間は自分の利益に捉われ、自由を失い、苦しみ出すのです。しかし、そうであってはならないのです。そうではなく、主がわたしたちに「ただで」、賜物として与えてくださったことに目を留めなければならないのです。この命も、人生も、家族も、職業も、能力も、健康も、すべてはただで受けたものなのです。神の自由な愛から出たものなのです。そうであるならば、なぜそれを自分のものとして固執するのでしょうか。わたしたちは、握り締めた手を開かなければならないのです。そして、握り締めていたものを、自由に、喜んで人々に差し出すのです。そして、何よりも、わたしたち自身を神のみ手に委ねるのです。そうした生き方だけが、わたしたちが神と共にいることのできるただ一つの道なのです。ですから、大事なのは、何を、どれだけ捨てるかということではなく、そうしたこと以上に、この自由と喜びの中に生きることなのです。


  今、わたしたちは、東日本大震災の中から立ち上がるために、さまざまなボランティア活動に取り組もうとしていますが、この自由と喜びの精神をもって取り組むことができれば素晴らしいのではないでしょうか。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。その生き方は、わたしたちを愛してやまない神との豊かな交わりをもたらしてくれるだけではなく、人々との豊かな交わりにもわたしたちを導いてくれるのです。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」、今朝はこの主イエスのみ言葉を心に深く刻みたいと思います。

(2011年5月19日)