チャプレンメッセージ「信仰、希望、愛」

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全学礼拝奨励「信仰、希望、愛」

菊地 順 チャプレン
菊地 順 チャプレン

コリント人への第一の手紙13:13

 3月11日に起こった東日本大震災は、津波で多くの町々を破壊し、多数の人命を奪いました。映像を通して伝えられる被災地の風景は、広島や長崎の原爆後の風景と似ているのではないでしょうか。すべてが破壊され、根こそぎに押し流され、辛うじて残っているのは家の土台や道路だけです。それが、今回の震災の原風景となっています。しかし、それは目に見える風景だけではなく、おそらく、それ以上に、被災した人たちの心をも表わしている風景ではないでしょうか。安らぎや喜びや思い出が一瞬にして奪い去られただけではなく、怒りや憤りも深く沈黙を強いられ、ただただ深い嘆きと不安に覆われた人々の心を示しているのではないでしょうか。


  このような事態を目の当たりにして、わたしたちはどこに希望を見出したらよいのでしょうか。また見出すことができるのでしょうか。今、日本では、「がんばれ」という言葉があちらこちらで叫ばれています。また海外からも、そう呼びかけられています。そうした呼びかけは、今大きな励みになっていると思います。また、今回の震災を通して、人々の善意が豊かに現れました。それはまた、希望でもあります。しかし、これから何年も続く復興の取り組みの中で、そうした呼びかけは、時として頭の上を素通りしてしまうかもしれません。実際、被災者のある人は、「頑張れ、頑張れと言われても、一体何を頑張ったらよいのか分からない」と話していました。現実の悲惨さを見つめれば見つめるほど、復興の困難さと深い不安が被災者の心を深く蝕んで行くのではないでしょうか。おそらく、そうした中では、「がんばれ」という励ましも、遠いところで空ろに響く声になってしまうのではないでしょうか。


  実は、聖書の中にも、似たような経験をした人がいます。それは、旧約聖書に出てくるヨブという人です。ヨブもある日、突然、自分の財産のすべてが奪われ、また家族のすべてを失うという経験をしました。しかし、このとき、ヨブはこう語ったと聖書には記されています。それは、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。主とは神のことです。ヨブは、一切を失ったとき、すべては神が与え、また神が取られたのだ、だから、神のみ名を賛美します、褒め称えます、と語ったのです。それは、人災でもあり、また天災でもありました。しかし、ヨブは、そのすべてのことを、神のみ手の中で起こったことだと受け止めたのです。そして、それをそのまま受け入れたのです。わたしは、今回の大震災のことを思い起こしながら、特にヨブが語った「主が与えた」という言葉を、今覚えたいと思うのです。


  わたしたちは、このような大惨事に遭遇したとき、真っ先に心に浮かぶことは、なぜ神がおられるなら、このような悲惨なことが起こるのか、という思いです。先日も、ある新聞に、ローマ法王ベネディクト16世に、そうした質問をした日本の少女のことが報道されていました。この少女は、今回の大震災で被災した7歳の少女ですが、この少女は、「なぜ子どもたちはこんなに悲しまなければならないのですか」と質問しました。こうした少女の思いは、ごく自然の思いだと思います。そして、子どものみならず、大人も、同じような問いを発しているのではないでしょうか。しかし、こうした事態の中で、わたしたちはもう一つの言葉を語ることができるのではないでしょうか。また語らなければならないのではないでしょうか。それは、「今までの、多くの恵みに満ちた生活は、神から与えられたものであった」という言葉です。ヨブが語った、「すべては神が与えられたものだ」という言葉です。もし、神のことを口にし、神に向かって「なぜ」と問いかけるなら、それと同時に、むしろそれ以前に、わたしたちは、ヨブのように、すべては神によって与えられたものだ、わたしたちは神によって多くの恵みを与えられていたとも語るべきではないでしょうか。そして、その与えられた神が、またすべてを取り去られたのだと語るべきではないでしょうか。少なくとも、一切を奪った略奪者であるかのように、一方的に神を批判するようなことになるならば、それは間違いだと思います。


  わたしは、ヨブが語った、「主が与え、主が取られたのだ」という言葉には、深い洞察があると思います。それは、何よりも、すべては神のみ手の中にあるということです。この世のもののうち、何一つ神のみ手からこぼれ落ちているものはないということです。そして、もう一つ大事なことは、こうした大惨事に遭遇すると、すぐに神の裁きといったことを連想しますが、しかし、聖書が語る神は決して人間を一方的に裁き、滅ぼすような方ではなく、それどころか、人間に救いのみ手を差し伸べている方であるということです。そして、差し伸べているだけではなく、事実、主イエス・キリストにおいて、救いを実現された方でもあるということです。確かに、特に旧約聖書には、ところどころに神の裁きという話が出てきます。それは確かです。しかし、聖書全体を見るとき、それが神の本来のみ心ではないことが分かります。神のみ心は、徹底して人々を救うことです。罪の囚われから解放し、人々に自由を与えることです。そして、そのために、神の独り子、主イエス・キリストを十字架にまでつけられた方なのです。そうした愛の神が、聖書が語る神なのです。


  そうであるとすれば、そしてこの神によって一切が支えられているとするならば、ときどきわたしたちの目の前に起こる理解困難な出来事も、その神への信頼において受け止め、そして委ねることができるのではないでしょうか。悲惨な出来事も、神の愛の中にある出来事として、神に委ね、いつしかその意味が解明されるときを待つことができるのではないでしょうか。そして、この神に委ねることができるとき、わたしたちには心の内から希望が湧いてくるのです。そして、わたしたちにも愛の力が起こってくるのです。


  先ほどの日本の少女の質問に、ベネディクト16世はこう答えています。「私も同じように『なぜ』と自問しています。[しかし]いつの日かその理由が分かり、神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう」。わたしたちを愛してくださっている神が、この悲惨な出来事の背後にもおられるのです。そして、愛のみ手を差し伸べていてくださるのです。その悲惨な出来事の意味は、今は分かりません。しかし、この出来事を通しても、神はご自身の愛をわたしたちに示そうとされているのです。なぜなら、神は、その独り子、主イエス・キリストをさえ惜しむことなく、わたしたちの救いのために、十字架に引き渡された方であるからです。


  神を信じ、希望と愛に生きるのか、それとも、神に躓き、神も仏もあるものかと言って、絶望に生きるのか、ここに人生の分かれ目があります。しかし、絶望からは何も生まれてきません。そうであるならば、わたしたちは、神を信じ、希望と愛に生きる道を選ばなければならないのです。そして、ただその道においてのみ、真実の勇気や知恵が生まれてくるのです。今日の聖書の箇所にあるように、「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛」なのです。それは、神を信じ、希望と愛に生きることです。そして、この生き方において、わたしたちは人生を肯定的に受け止め、雄々しく生きる力を与えられて行くのです。


  大震災を覚える今、わたしたちは、改めて、聖書が語る「信仰、希望、愛」を心に深く刻みたいと思います。

(2011年5月10日)