チャプレンメッセージ「足を洗い合う」

チャプレンのメッセージを発信しています。

政治経済学部FO閉会礼拝奨励「足を洗い合う」

菊地 順 チャプレン
菊地 順 チャプレン

ヨハネによる福音書13:3-5、12-15

 今週は、キリスト教にとって、「受難週」と呼ばれる特別の1週間になっています。「受難週」とは、イエス・キリストが十字架につけられたことを覚える1週間で、この受難週の後に、イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターを迎えます。今度の日曜日がそのイースターの日です。キリスト教に馴染みのない人も、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは知っていると思います。それは12月25日と決まっています。しかし、イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターは、毎年変わります。大体3月下旬から4月下旬に行なわれます。そして、今年は明後日の4月8日がそのイースターで、その1週間前の今週が受難週となっています。


  今日は、その受難週に起きた一つの出来事についてお話したいと思います。イエス・キリストは、受難週の暦で言えば、今日、十字架につけられました。朝の9時ごろに十字架にはりつけにされ、午後の3時ごろ息を引き取ったと言われています。そして、それに先立つ木曜日の晩に、イエス・キリストは12人の弟子たちと一緒に夕食をとりました。その場面を描いた有名な絵が、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」であるのは、皆さんもご存知のことだと思います。この夕食のあと、意外なことが起こりました。それは、イエス・キリストが、おもむろに席から立ち上がり、何と、弟子たちの足を洗い始めたからです。当時、人々は素足にサンダルを履いていましたから、足はいつもほこりで汚れていました。しかも、人の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。それなのに、イエス・キリストは、弟子たちの足を洗い始めたのです。イエス・キリストは、弟子たちから「主」と呼ばれていました。また「教師」(=先生)とも呼ばれていました。そのイエス・キリストが、弟子たちの足を洗い始めたのです。そこで、弟子の中には、「わたしの足を決して洗わないで下さい」と懇願する者もいました。しかし、イエス・キリストは、12人全員の足を洗われたのです。その中には、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダも含まれていました。そして、席につかれと、こう弟子たちに語られたのです。「主であり、教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」。イエス・キリストは、身をもって弟子たちに、「互いに足を洗い合う」よう、手本を示されたのです。


  皆さんは、人の足を洗ったことがあるでしょうか。教会によっては、この出来事を覚えて、本当に受難週の木曜日に人の足を洗い合ったりするところもあります。またある海外のキリスト教大学では、学長が学生の足を洗ったというニュースが伝わってきています。もちろん、そうした足の洗い方もあります。しかし、ここでイエス・キリストが語られている「互いに足を洗い合いなさい」という教えには、もっと深い意味があるように思います。ご存知のように、日本語にも「足を洗う」という言葉があります。それは、仏教から生まれた言葉で、一般には、悪い生活を止め、まっとうな生活へと立ち返ることを意味しています。しかし、イエス・キリストが語った言葉は、それとは異なります。イエス・キリストは、人間の足が土ぼこりで汚れているように、人間の心もさまざまな罪で汚れている。だから、足を洗うように、その心の汚れも洗い落とさなければならないと考えたのです。そして、その時、人の汚れを見て、それを咎めたり非難したりして、互いにいがみ合うのではなく、むしろ、その汚れを率先して取り除くことによって、互いに清め合い、互いの徳を高め合いなさいと教えたのです。


  もっと具体的に言うと、過ちを犯した人を咎めるよりも、むしろ赦しなさいということなのです。あるいは、憎しみを覚える人に対して、憎しみを増し加えるよりも、むしろ愛をもって接しなさいということなのです。そのようにして、相手の心にある汚れを取りのぞきなさいと語るのです。それは、人間の心の汚れは、赦されることによって、また愛されることによってしか、本当のところは取り除かれないからなのです。


  弟子たちの足を洗ってからしばらくして、イエス・キリストは捕えられ、裁判にかけられ、そして十字架にかけられて処刑されました。しかし、それは、イエス・キリストに罪があったからではなく、罪ある人々の身代わりとなって、十字架の刑に服したのです。それは、罪ある人々を愛し、その人々を赦し、その身代わりとなることによって、人々を罪の捕われから解放するためであったのです。愛することによって、人々の罪を取り除くためであったのです。それが、十字架の出来事として聖書が語ることなのです。


  イエス・キリストは、その愛を、十字架につけられる前の晩、弟子たちの足を洗うということによって、予め示されたのです。そして、互いに足を洗い合いなさいと教えられたのです。教会は、この出来事を記念して、受難週の木曜日を「洗足木曜日」と呼んでいます。そして、キリストの十字架の出来事を見上げるとき、互いの足を洗い合う生き方を改めて思い起こすのです。


  今年度は、たまたまこの受難週から始まりました。そして、皆さんの大学生活も、この受難週から始まりました。イエス・キリストの愛を見上げる受難週から始まったのです。それは、偶然のことかもしれません。しかし、そこに特別のメッセージを見ることもできるのではないでしょうか。東日本大震災から1年、今、わたしたちは新しい日本社会を作るスタートラインに立っているとも言えます。そして、今、このとき、わたしたちに必要なものは、キリストが示された愛ではないでしょうか。それは、一言で言えば、<犠牲愛>とも言えるかもしれません。そして、そうした<犠牲愛>なくして、日本の再建はあり得ないのではないでしょうか。わたしは、皆さんに、是非、その愛の精神を、この大学生活をとおして豊かに養っていただきたいと思うのです。そして、皆さん一人ひとりの人生を豊かにするだけではなく、社会をも豊かにする歩みへと、歩み出して行っていただきたいと思うのです。「互いに足を洗い合いなさい」、このイエス・キリストの言葉を心に抱いて、これからの大学生活を歩み出して行きましょう。


(2012年4月6日)