チャプレンメッセージ「見よ、わたしは新しい事をなす」

チャプレンのメッセージを発信しています。

冬のリトリート閉会礼拝奨励「見よ、わたしは新しい事をなす」

菊地 順 チャプレン
菊地 順 チャプレン

イザヤ書43:19-20

  今読んでいただきました聖書の箇所は、「あなたがたをあがなう者、イスラエルの聖者、主はこういわれる」という宣言の言葉で語り出されている、神の言葉の一部です。ここでイザヤは、神の言葉として、「見よ、わたしは新しい事をなす」と語り出しています。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」と語られています。神は、新しい事をなす、と言うのです。そして、その新しい事とは、「荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」ことだと言うのです。荒野には道はありません。ごつごつとした岩肌が露出した不毛の世界です。灌木類は存在するかもしれませんが、人間がそこで生活することはできません。しかし、そこに道ができれば、そこに新しい活動が展開することになります。死んでいた価値のない世界が、新しい価値をもって出現してきます。それはまた、砂漠も同じです。そこは荒野より一層死に近い世界です。しかし、そこに川が流れれば、それは死の世界から命の世界へと一変します。そうした新しい事を、神はなさると言うのです。


  しかし聖書は、他方、全く別の世界をも語っています。その代表的な箇所は、旧約聖書の伝道の書です。ここでは「空の空、空の空、いっさいは空である」。「日の下に新しいものはない。『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである」と謳われています。一方では、空の空、空の空、一切は空であると語られている世界、そしてもう一方では、「わたしは新しい事をなす」と語られる世界、その両方が聖書には語られています。しかし、それは、矛盾した話というのではないと思います。そうではなく、それぞれが真実の事として語られているのです。確かに、一方では、日の下に新しい事は何もないとも言えるのではないでしょうか。人間の歴史を顧みるとき、そこに本当に進歩はあるのかと疑いの目を向けざるを得ない状況があります。しかし、その歴史の中に、予期しない新しい事が起こるのもまた事実ではないでしょうか。わたしは、マーティン・ルーサー・キングに関心があり、その学びをしていますが、それは、何よりも、キングたちの運動が、神によって引き起こされた出来事と思えてならないからです。キングの妻コレッタは、あの運動を振り返り、しばしば「神の国」がこの地上に実現したかのような感動に捕らわれたと語っていますが、そうした新しい事が、この地上には起こるのです。


  ところで、皆さんはアウグスティヌスという人をご存知でしょうか。4世紀後半から5世紀前半に活躍した古代教会最大の神学者と言われている人ですが、この人は「悪」の問題で非常に悩んだ人です。そのために、初めマニ教の解く教えに強く惹かれ、マニ教に入信しますが、その後キリスト教に改宗します。それは、一つには、マニ教の解く悪の理解よりもキリスト教の解く悪の理解に真理を認めたからなのです。アウグスティヌスは、この世の悪の根源を、聖書が語る「無からの創造」に見ました。無から創造された故に、被造物は、自らの力では永遠の真理である神ご自身に至ることはできず、それどころか道を踏み外し、さまざまな悪に陥っていくと考えたのです。そして、すべての被造物は、無から造られたゆえに「無」に帰すると考えたのです。そうした、言わば造られた素材に目を向けると、世界は、結局は無でしかないということになります。しかし、一方、それを造られた神に目を向けると、世界は別様に見えてくるのではないでしょうか。教会は、神は、この世界を、その愛のゆえに創造されたと考えてきました。この世界は、神の愛に値するものではないが、神がまず愛を持って世界を創造されたから、世界は存在し、価値のあるものとなったと考えたのです。それは、愛は価値を生み出していくからです。価値のないものでも、それを愛するとき、それは価値を持っていくのです。教会は、そうした神の愛があって世界は創造され、存在し、そして価値あるものとされていると考えてきたのです。そして、その神の愛が注がれる時に、新しい事が起こされるのです。ですから、わたしたちは、この世界に空の空という現実を見つめる一方で、なおそこに新しい事を起こす神の愛を見つめていくことができるのです。そして、その視点を持つことが大切なのです。


  皆さんの中で、マザー・テレサを知らない人はいないと思います。しかし、マザー・テレサというのは、ご存じのように、本名ではありません。マザー・テレサは、旧ユーゴスラビア出身の人で、元々の名前はアグネス・ゴンジャ・ボアジュという人です。18歳で修道会に入り、その後初請願を立て、正式に修道女となった時に、テレサという修道名をもらったわけです。ところで、このテレサという名前は、16世紀に活躍した有名な修道女の名前からとられたものですが、この女性について少し紹介したいと思います。


  この女性は、一般にアビラの聖テレサと言われているスペインの女性で、この女性はアビラという町にあったカルメル会の修道女としてカルメル会の刷新に努力し、多くの修道院を創設した人です。このアビラの聖テレサは、元々貴族階級に生まれ育った人ですが、16歳の時にカルメル会の修道院に入ります。しかし、それは、修道女を目指して入ったわけではなく、当時は修道院が上流階級の女子教育の場ともなっていたために、花嫁修業の一つとして修道院に入ったのです。しかし、その生活をとおして次第に修道会に正式に入ることを志すようになります。そこに至るまでには、いろいろな経緯がありましたが、そのきっかけとなったのは、この世の空しさを深く経験したからでした。「空の空、空の空、すべては空である」との思いを深めたからです。しかし、それだけではありませんでした。そうした空しさを見つめる中で、次第に世界の見方が一変していき、全く別の世界観に至るのです。それは、空しいと思えていた世界の背後に神の存在を感じ取って行ったからです。そして、すべては神の恵みであるとの洞察に至るのです。「すべては空しい」という思いから「すべては神の恵み」であるとの思いに至ったのです。その時、このアビラの聖テレサは、すでに修道女になっていましたが、その慣れ親しんだ生活の中から立ち上がり、積極的に祈り・行動する女性となっていくのです。そして、カルメル会を刷新し、多くの修道院を創設することになったのです。そうした大きな転換を、この世を見る見方を変える中で、与えられていったのです。


  今、わたしたちは、東日本大震災の痛みの中にいます。そして、あの悲惨な状況を思い起こす度に、未だに空しさを覚える中にいるのではないでしょうか。空の空、空の空、一切は空であるとの思いを深めるのではないでしょうか。しかし、今必要なのは、その現実を見つめる一方で、なおそれ以上に、すべてを新しくする神の愛に目を向けることではないでしょうか。そして、その愛に信頼をおき、また同時に、わたしたち自身がその愛に生きることではないでしょうか。「わたしは、新しい事をなす」。「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」と語られている、その神の愛に信頼し、わたしたちも新しく立ち上がり、神の愛に生きることが大切なのではないでしょうか。なぜなら、その愛において、新しい価値の創造が始まるからなのです。神の愛に信頼し、わたしたちもその神の愛に倣うとき、そこに新しい創造が始まるからなのです。そうした新しい創造こそが、今、この時、大切なのではないでしょうか。


  今回のリトリートは、「この場所からのチャレンジ―今を乗り越えるためには―」とのテーマで学びと語り合いの時を持ちましたが、それぞれに得るところがあったと思います。その恵みに、なおもう一つ、改めて神の愛を覚えることをとおして、思いと意欲を新たにされ、それぞれの生活の場に戻って行きたいと思います。


(2012年2月17日)