チャプレンメッセージ「最悪にあらず」

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クリスマス礼拝説教「最悪にあらず」

菊地 順 チャプレン
菊地 順 チャプレン

ルカによる福音書2:8-11

  ルカによる福音書によると、イエス・キリストの誕生の知らせを真っ先に告げられたのは、羊飼いたちでした。ルカによる福音書の第2章8節には、「さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」と記されています。皆さんは、この言葉から、どのようなイメージを抱かれるでしょうか。


  ある人は、広々とした野原を想像するかもしれません。そして、羊は安らかに眠り、羊飼いはのんびりと羊の番をしながら、美しく澄んだ夜空をながめている姿を想像するかもしれません。おそらく、羊飼いの生活には、そうした時もあったと思います。しかし、羊飼いという仕事は、一般には、もっと厳しく、そしてつらいものでした。夏には猛暑に苦しめられ、冬には厳しい寒さに苦しめられ、またたえず襲ってくるオオカミや盗人から羊を守らなければなりませんでした。しかも、羊飼いたちは、大抵は雇われた人たちで、自分の羊を飼っていたのではなかったのです。彼らは、非常に貧しく、自分の羊を持つことができず、人の羊の世話をすることによって、生計を立てていたのです。しかも、羊が盗まれれば、それを賠償しなければなりませんでした。そうした苦しい生活を、雇われた羊飼いたちは強いられていたのです。そしてまた、こうした人たちは、社会的にも非常に地位の低い人たちでありました。


  こうした羊飼いたちの話を読むたびに、わたしはいつも、ある話を思い出します。それは、デンマークの哲学者のキルケゴールという人にまつわる話です。キルケゴールは、自分の一家は神に呪われているという恐れを持って生きた人ですが、そう思った理由の一つに、自分の父親が、若いとき、ユトレヒト半島で羊の番をしていた折、あまりのつらさと、寒さと、飢えのために、神を呪ったという話を聞いたからでした。そのことが一因となって、キルケゴールは、自分の家に起こるさまざまな不幸を、神の呪いとして受け取るようになったと言われていますが、その話からしても、羊飼いの仕事は、過酷な仕事であったということです。時には、神を呪いたくなるような、過酷な仕事であったということです。そして、その仕事だけではなく、その生活も、非常につらいものであったのです。


  しかし、今日の聖書は、そうした羊飼いたちに、真っ先に、イエス・キリストの誕生が知らされたというのです。聖書には、こう記されています。「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである---』」。


  なぜキリストの誕生は、真っ先に羊飼いたちに告げられたのでしょうか。なぜ、時の支配者であるヘロデ大王ではなかったのでしょうか。あるいは、時のローマ皇帝アウグストゥスではなかったのでしょうか。おそらく、その答えは簡単であると思います。それは、その知らせを最も待ち望んでいた人たちのところに、真っ先に告げ知らされたからなのです。


  皆さんは、もし将来結婚し、子供が生まれたとき、そのことを真っ先に誰に報告するでしょうか。おそらく、自分の親や兄弟や友人に真っ先に報告するのではないでしょうか。子供の誕生を心から待ち望んでいた人たちに報告するのではないでしょうか。今日の聖書の箇所も同じではないかと思います。神は、キリストの誕生を心から待ち望んでいた人たちのところに、真っ先に告げ知らせたのです。神の救いを心から待ち望んでいた人たちに、真っ先に告げたのです。そして、彼らは、それを聞いて心から喜んだのです。逆に言えば、神の救いを心から待ち望んでいない人たちにキリストの誕生が告げられても、それはつまらない話なのです。取るに足りない、どうでもいい話なのです。しかし、救い主の誕生を心から待ち望んでいた人たちにとっては、それは大きな喜びとなったのです。


  羊飼いたちは、この世に対する深い絶望の中で、心から神の救いを待ち望んでいました。そして、それゆえに、救い主の誕生の知らせを真っ先に聞くことになったのです。しかし、それは、今の時代でも同じではないでしょうか。毎年、クリスマスの季節を迎えるたびに、わたしたちはキリストの誕生を告げ知らされますが、その知らせを、わたしたちはどういう思いで聞いているでしょうか。それは喜びなのでしょうか、それともどうでもいい話なのでしょうか。おそらく、心から神の救いを求めている人たちにとっては、救い主の誕生という話は、心温まる話となるのではないでしょうか。そして、その心は、大きな喜びに満ち溢れていくのではないでしょうか。光が差し込んでくるのではないでしょうか。そして、この世界がいまだ真っ暗な闇に包まれているとしても、そこには生きる力がわいてくるのではないでしょうか。そして、その光があれば、世界がどれほど暗く、絶望的であるとしても、決して最悪ではないのです。そこには、かすかではあるとしても、希望の光が照り出しているからです。そして、それは、徐々に暗い闇を打ち砕いていくのです。


  神は、わたしたちの求めに応えてくださる方なのです。この神に信頼するとき、そこに希望の光が差し込んでくるのです。ちょうど、子供の誕生の知らせが、心を明るく照らすように、わたしたちの心を希望の光で照らすのです。そのとき、わたしたちはどれほど暗い世界に生きているとしても、決して最悪ではないのです。それは、神がわたしたちと共にいてくださるからです。イエス・キリストにはもう一つの名前があります。それは、「インマヌエル」という名前です。これは、「神われらと共にいます」という意味の名前です。2000年前、飼い葉桶の中に寝かされたイエス・キリストは、神がわたしたちと共にいますという、大きな喜びの、目に見える「しるし」なのです。このしるしを胸に抱いて生きるとき、わたしたちは、どんな苦難や試練に遭遇するとしても、心の底から、「最悪にあらず」と確信をもって語ることができるのです。そして、絶望の淵から立ち上がることができるのです。


  お祈りいたします。
  主イエス・キリストの父なる御神、今日、共にクリスマスの礼拝を守ることを許され感謝をいたします。あなたは、み子イエス・キリストをわたしたちのところに誕生させてくださり、あなたが常にわたしたちと共にいてくださいますことを表してくださいました。その恵みを覚え、み名を賛美いたします。どうぞ、わたしたち一人ひとりが、み子を受け入れる中で、あなたと共に生きる喜びと力に与り、み前に雄々しく歩んでゆくことができますよう、導きをお与えください。東日本大震災から9か月が経ちましたが、まだまだ多くの方々が、苦しい生活を強いられています。お一人お一人の上に、あなたの守りと導きがありますように。主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。

(2011年12月20日)