チャプレンメッセージ「勇気を出しなさい」

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2010年度聖学院大学卒業礼拝「勇気を出しなさい」

菊地 順チャプレン
菊地 順チャプレン

ヨハネによる福音書16:29-33

  (この説教は、3月17日の卒業礼拝のために準備したものです。しかし、3月11日に起こった東北関東大震災のため卒業礼拝が中止となり、お話しすることができませんでした。そこで、大学のホームページに掲載することになりましたが、大震災についてはあえて触れず――時間的余裕もないため――、準備したものをそのまま掲載します。)


  今年は、アメリカ合衆国の第35代大統領ジョン・F・ケネディが大統領に就任して、ちょうど50年目の年です。50年前の1961年1月20日に、ケネディは43歳の若さで、第35代大統領に就任しました。この就任式で語った演説は、今ではあまりにも有名です。この時ケネディは、アメリカ国民に対しては、「国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え」と訴えました。そして、世界の人々に対しては、「アメリカが諸君のために何ができるかではなく、我々がともに人類の自由のために何ができるかを問い給え」と訴えました。自国のために、また人類の自由のために、一人ひとりが何ができるかを考え、そして行動するよう訴えたのです。この言葉に多くの人たちが感動しました。そして、その言葉から溢れ出る若さとリーダーシップに、新しい時代の到来を確信したのです。


  しかし、ケネディの大統領としての歩みは、多くの困難に満ちたものでした。そして、その最後は、暗殺という悲惨な結末となりました。1963年11月に、テキサス州ダラスで暗殺されたことは、若い人たちにもよく知られていることだと思います。ケネディが大統領としてアメリカを治めたのは、3年弱の約一千日でした。それは栄光に満ちた一千日であると同時に、多くの重圧と苦渋に満ちた一千日でもありました。このケネディの生涯を振り返るとき、おそらく、多くの人が、「勇気」という言葉を思い浮かべるのではないでしょうか。わたしも、ケネディのことを思うとき、真っ先に浮かぶ言葉は、「勇気」という言葉です。勇気なくして、あの一千日を歩むことはできなかったと思います。そして、それだけではなく、ケネディ自身、常に「勇気」という言葉を胸に抱いて、その人生を生きた人でもあったのです。


  ケネディは、何よりもアメリカの大統領として知られていますが、ケネディは大統領になる前からも、しばしば人々の注目を引く働きをしています。その一つは、第二次世界大戦中に日本軍と戦ったとき、負傷した部下の命を救ったことです。ケネディは、ハーバード大学を卒業した後、兄と共に海軍に入り、魚雷艇の艇長として南太平洋に出撃します。任務は、日本の補給艦を阻止することでした。しかし、1943年8月2日の夜、乗っていた魚雷艇が突然遭遇した日本の駆逐艦に激突し、魚雷艇は真っ二つにされ、その結果12名の部下と共に海に投げ出されてしまいます。この衝突で2名の部下が死亡し、1人が大やけどを負いますが、この時ケネディは、このやけどを負った部下の救命胴衣のひもを口にくわえ、数マイル離れた島まで泳いだのです。その結果、この部下は一命を取り留め、ケネディはその後その勇気を称えられてメダルを授与されました。


  しかし、この時、ケネディはもともと傷めていた背骨を負傷することになります。ケネディは、ハーバード時代、フットボールの選手でしたが、プレー中に背骨を傷め、その後それにしばしば苦しめられていましたが、その古傷を傷めたのです。そして、この負傷は、後にケネディの政治生命すら脅かすことになったのです。しかしケネディは、そうした古傷を負いながらも、部下の命を救うために、わが身を顧みることなく全力を尽くしたのです。この一事にも、ケネディの勇気ある生き方が示されているのではないでしょうか。


  ところで、今日の聖書の箇所で、主イエスは「勇気」ということを語っています。33節の後半で、「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と語っています。主イエスがこの言葉を弟子たちに語ったとき、主イエスは、すでにご自身の最期を覚悟されていました。一人の弟子の裏切りをとおして、祭司長や律法学者たちの手に渡され、命を失うことを覚悟していたのです。それは、主イエスにとって、決定的な危機でありましたが、それはまた同時に、弟子たちにとっても同じことでした。自分たちが「主」と仰ぎ、「先生」と慕ってきた主イエスがいなくなることは、交わりの中心を失い、交わりそのものが崩壊して行くことを意味していました。正にバラバラにされようとしていたのです。そして、バラバラにされて行く中で、深い絶望と不安に引き摺り込まれようとしていたのです。そうした中にいた弟子たちに対して、主イエスは、「勇気を出しなさい」と語ったのです。


  「勇気を出しなさい」。これは深い慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。しかし、これは、弟子たち以上に深い孤独の中に置かれていた主イエスが語られた言葉であったのです。このところで、主イエスはこう語っています。「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時がくるであろう。いや、すでにきている」。弟子たちがバラバラに散らされて行く中で、主イエスは一人とされ、深い孤独の中に置かれることになったのです。しかし、その主イエスが、「勇気を出しなさい」と語ったのです。それは、主イエスは、その本質においては、決して孤独ではなかったからなのです。先ほどの言葉に続き、こう語っています。「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」。「父がわたしと一緒におられる」、父なる神が自分と共におられる、この確固とした確信こそが、この時、主イエスを支えた力であったのです。そして、それこそが、生きる勇気の源であったのです。主イエスは、その勇気をもって、またその勇気の中から、弟子たちに対して、「勇気を出しなさい」と語られたのです。


  勇気には、この絆があるのです。それは、主イエスにとっては父なる神との絆でした。そしてまた、弟子たちにとっては、主イエスとの絆でした。そうした絆、交わりが勇気を生み出すのです。そして、それが聖書が語る勇気なのです。聖書には、勇気という言葉がしばしば出てきます。また直接勇気という言葉ではなくても、たとえば「強く雄々しくあれ」という言葉が語られています。そして、その多くが、今触れたような、深い絆に基づく勇気なのです。そして、そうした勇気こそが、この世に打ち勝つ力なのです。主イエスは、弟子たちに、「わたしはすでに世に勝っている」と語っています。主イエスにとって、この世とは、自分に敵対し、自分の命すら奪おうとしていた世界です。その世界に対して、主イエスは「わたしはすでに世に勝っている」と語ることができたのです。そして、弟子たちにも、勇気を持ってこの世に勝利するように、励まされたのです。


  この世というのは、一面、苦悩に満ちた世界です。皆さんがこれから踏み込んで行こうとしているこの世は、決して平穏無事な世界ではありません。むしろ、さまざまな嵐が吹き荒れているところです。競争があり、妬みがあり、対立があり、さまざまな誤解や不信が渦巻いているところです。皆さんは、そうした嵐との戦いに勝利しなければならないのです。この世に勝たなければならないのです。そういう皆さんに対して、主イエスは、「勇気を出しなさい」と語られているのです。わたしが父なる神と共にいることで持っている力によって、勇気を出しなさいと語られているのです。こう語るわたしが、すでに世に勝っているゆえに、勇気を出しなさいと語られているのです。


  初めにケネディの話をしましたが、ケネディが見ていた勇気も、実は、深い絆に基づくものであったのです。ケネディは日本軍との戦いで古傷を傷めましたが、それは、その後のケネディを何度となく苦しめることになりました。そして、10年余りしてついに背骨の手術をすることになりますが、それはまかり間違えば政治生命を絶たれるほどの深刻なものでした。しかし、この苦しい時期、ケネディは一冊の本を書いています。それは、『勇気ある人々』という本です。これは、アメリカで活躍した8人の上院議員の勇気ある行動を紹介したものですが、ケネディは、この書物をとおして、政治家が勇気を持つことがいかに大切かを論じています。しかし、この書物は、そのこと以上に、自分自身が政治家としてそうした勇気をもって生きることを宣言した書物でもあったのです。この本は、その年のピューリッツァー賞を受賞することになりましたが、この本の中でケネディは、政治家の勇気についてこういうことを語っています。


 「真の民主主義は、血が通い、成長し、そして人を奮い立たせながら、民衆に信頼を寄せている。その信頼とはすなわち、民衆はただ見事にそして忠実に自分たちの考えを代弁してくれる人物を選ぶだけでなく、良心に従った判断を実行に移そうとする人物を選んでくれるという信頼であり、さらに、民衆は----勇気を称え、名誉を尊重し、そしてきっと最後には正しいと認めてくれる、という信頼なのだ。」


  ここでケネディは、民衆への信頼こそ、民主主義の根幹であると語っています。しかも、その民衆への信頼とは、民衆は、ただ自分たちの利益を代弁する人を選ぶだけではなく、最後には良心に従って判断し、実行する政治家を選んでくれるという信頼です。そういう民衆への信頼があって、初めて、政治家の勇気が湧いてくるのだと言うのです。これは、大事な指摘ではないでしょうか。民衆は、ただ私利私欲に生きるのではなく、最後には、良心の声に従って判断し行動する政治家を選び取る人たちであるという、民衆への信頼こそが、政治家の勇気を奮い立たせる力であると言うのです。そういった民衆との絆があって、初めて、政治家は政治家としての勇気を持つことができるのです。


  しかし、その絆が、もっと深く大きいものであったなら、その勇気はもっと深く大きいものとなるのではないでしょうか。そして、そのもっとも深く大きい勇気こそ、神への信頼に基づく勇気なのです。ケネディには、民衆への信頼があっただけではありません。一方では、民主主義という政治的理念への信頼がありました。また他方では、家族との深い絆がありました。選挙のたびごとに、家族が一致団結した話は有名です。そして、その背後には、カトリックの信仰がありました。ケネディがどれほど熱心なクリスチャンであったかは分かりませんが、熱心な母親の信仰に支えられた歩みであったことは間違いありません。そうした幾重にも重なる信頼の絆が、ケネディの勇気を育んでいったのです。そして、そうした絆なくして、ケネディの政治家としての勇気もなかったのです。


  明日、皆さんを社会に送り出すに当たり、改めて「勇気を出しなさい」という言葉を贈りたいと思います。皆さんにも多くの絆があると思います。家族の絆、友人との絆、あるいはさまざまなサークルやバイト先での絆があると思います。そして、これから社会に出て行く中で、新しい絆が作られていくことと思います。それらすべてを大事にして欲しいと思います。そして、それらを一層強固で深いものにして欲しいと思います。しかし、それと同時に、皆さんには、皆さんの母校である聖学院との絆があることを忘れないで欲しいと思います。わたしたちは、これからも皆さんのことを覚え、応援し、祈り続けていきます。皆さんの背後には、そうした母校があるということを忘れないでください。そして、もう一つ、忘れないで欲しいことがあります。あるいは、困難に陥ったとき、思い起こしてもらいたいことがあります。それは、この大学の土台であり、根幹であるイエス・キリストという存在です。今日の聖書の中で、わたしたちに「勇気を出しなさい」と語られているイエス・キリストのことです。困難に陥ったとき、このイエス・キリストのことを思い起こしてください。そして、父なる神に祈ってください。それは、きっと、皆さんの生きる力になると信じています。


  どうぞ、皆さんが持っている一つ一つの絆を大切にし、勇気を持って生きて行っていただきたいと思います。皆さんの将来に、どのような試練が待ち受けているか分かりません。どのような嵐が吹くか分かりません。しかし、どのような時にも、勇気を持って生きて行って欲しいと思います。そして、たとえどのような困難に遭遇しようとも、勇気を持って困難に打ち勝ち、人間として大いに成長しながら、それぞれに与えられた人生を喜びと感謝を持って生きて行ってください。もう一度、今日の聖書のみ言葉をお読みいたします。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」 皆さんのこれからの歩みの上に、神さまの祝福を心よりお祈りしています。

(2011年3月17日)