チャプレンメッセージ「交わりの原点」

チャプレンのメッセージを発信しています。

新任教職員就任式開会礼拝説教「交わりの原点」

菊地 順 チャプレン
菊地 順 チャプレン

マタイによる福音書7:7-12

 新年度に向けて、多くの新任の先生方、また職員の方々をお迎えできますことを、心より嬉しく思います。今日本は、大震災からの復興に向けて、大きな試練の時を歩み出していますが、こうした時こそ、思いと業を一つにして、聖学院に託された使命に取り組み、日本の再建のためにも貢献して行きたいと思います。


  さて、今日与えられている聖書のみ言葉は、先ほどお読みしましたマタイによる福音書7章の7節から12節の言葉です。特に、この最後のところに記されている、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という言葉は、「ゴールデン・ルール」、「黄金律」とも呼ばれてきた言葉で、キリスト教世界の倫理的基盤の一つともなっているところです。今日は、新年度を迎えるに当たり、改めてこの言葉に注目し、わたしたちの交わりを作る大事な原点として、心に刻みたいと思います。


  ここには、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ、これが律法であり預言者である」と記されています。「律法であり預言者である」とは、旧約聖書のことを意味しています。イエス・キリストが活動していた時代は、未だ今の形での旧約聖書は完成していませんでした。まとめられていたのは「律法」と呼ばれる部分と「預言者」と呼ばれる部分だけでした。ですから、「律法と預言者」と言えば、それは、それまでのユダヤ教の教え全体を意味していると言ってもいいと思います。したがって、ユダヤ教の大事な教えとして、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という言葉が語られているのです。しかし、それはイエス・キリストによって語られることにより、キリスト教にとっても大事な教えとなり、またその後の西洋世界にとっても重要な教えとなっていきました。そして、それは、今でも、キリスト教世界を背景とする国々では、一つの生きる指針となっています。


  わたしは、この聖書の言葉に触れる時に、いつも思い起こす言葉があります。それは、アメリカの第35代大統領であったジョン・F・ケネディの言葉です。奇しくも、今年は、ケネディが大統領に就任してからちょうど50年目の節目の年です。50年前の1961年1月20日、ケネディは43歳の若さで第35代アメリカ大統領に就任しました。そして、今ではあまりにも有名になっている、あの就任演説を行なったのです。その最後の言葉は、みなさんの記憶にも深く刻まれていることと思います。この時ケネディは、アメリカ国民に対しては、「国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え」と訴えました。そして、世界の人々に対しては、「アメリカが諸君のために何ができるかではなく、我々がともに人類の自由のために何ができるかを問い給え」と訴えました。自国のために、また人類の自由のために、一人ひとりが何ができるかを考え、そして行動するよう訴えたのです。この言葉に多くの人たちが感動しました。そして、その言葉から溢れ出る若さとリーダーシップに、新しい時代の到来を確信したのです。


  しかし、ケネディの大統領としての歩みは、多くの困難に満ちたものでした。その最大のものは、キューバ危機であったと思います。しかし、国内にも深刻な問題を抱えていました。それは、人種問題でした。1950年代半ばから、マーティン・ルーサー・キング牧師たちを中心とする黒人の地位向上を求める運動が始まり、それが公民権運動となって全国で展開されていました。この人種問題に対して、初め、ケネディは必ずしも積極的ではありませんでした。いろいろな政治勢力の渦巻く中で、黒人の公民権運動を積極的に支援することにためらいを覚えていたのです。しかし、事態は、そうしたためらいを超えて、ケネディに決断を迫ることになります。そして、ケネディは、終に、公民権運動を全面的に支援し、公民権法の成立に向けて全力を注ぐことになります。その時、ケネディは、テレビを通して、国民にその重大性と必要性を訴えますが、その時、その理論の根拠としたのが、今日の聖書の言葉なのです。


  この時ケネディは、まず、「われわれが本来、解決しなければならないのは、道徳的な問題だ」と訴えました。そして、こう続けたのです。「それは聖書が指摘して以来続いている問題であり」、「問題の核心は、アメリカ市民がみな平等の権利と機会を与えられるべきかどうか、自分がこう扱われたいと望むのと同じように他のアメリカ市民を扱おうとしているのかどうか、ということだ」。ケネディは、アメリカが抱えている根本問題は倫理的な問題だとし、その核心は、聖書が指摘している、「自分がこう扱われたいと望むのと同じように他のアメリカ市民を扱おうとしているかどうか」にあると訴えたのです。それは、主に白人に対して訴えられた言葉でした。白人は、自分たちがこう扱われたいと望むのと同じように、黒人を扱おうとしているのかどうか、そうケネディは訴えたのです。そして、もしこのことが実現されないならば、一体誰が、国家の意向によろこんで従うだろうかと訴えたのです。この人種問題は、アメリカの一致と統一のためには死活問題となっていました。そして、その一致は、今日の聖書が語る、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という、それこそ「ゴールデン・ルール」が確立されない限り、到達できるものではなかったのです。


  日本にも似たような教えがあります。「自分がされたくないことは、人にもするな」という教えです。しかし、これは、社会の秩序を保つ上では有効かもしれませんが、社会を積極的に一つにまとめて行こうとするときは、弱いものになってしまうのではないでしょうか。むしろ、今日の聖書にあるように、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という、積極的姿勢が必要なのではないでしょうか。そうした積極的な取り組みなくして、新しい世界の形成は難しいと思います。


  イエス・キリストに従い、ローマ帝国内の各地に教会を建てたパウロは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と教えていますが、それもこの精神に通じることではないかと思います。今回の東北関東大震災の中で、この精神が発揮されているのではないでしょうか。イエス・キリストが教えた、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という教えと同じ精神が、今の日本を支えていると思います。わたしたちも、この精神をもって、4月からの新学期を迎えたいと思います。そして、それぞれの学校の伝統を重んじつつも、新しい未来に向けて、一致団結して取り組んで行きたいと思います。

(2011年3月26日)