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子どもの心のケア支援の実践

 聖学院大学では、子どもの心のケアの支援を実践されている教員がいます。金谷京子教授は、臨床発達心理士として、原発事故避難の子どもたちを支援しています。支援は現在も継続中ですが、聖学院大学の学生もボランティアとして参加し、一緒に活動しています。
 詳細は、雑誌「発達」No.128, Vol.32(特集:震災の中で生きる子ども/2011年10月発行)金谷教授の記事「原発事故避難の子どもたちを支援して」を参照してください。

朝日新聞(2012/3/1)に、旧騎西高校に避難する、双葉町の子どもたちについて、金谷京子教授のコメントが、掲載されました。
 ⇒詳細はコチラ
支援イメージ 加須市の体育館でのパラバルーン遊び
支援イメージ コミュニティーセンターでの新聞紙あそび
1. 遊び広場の開設―さいたまスーパーアリーナで

 東日本大震災の影響による福島第一原発事故周辺地域への放射能の影響が懸念されたことから、双葉郡双葉町や大熊町をはじめ、原発から半径20km圏内の周辺地域の住民が避難することになりました。日本臨床発達心理士会の埼玉支部は、3月21日からアリーナ内に子どもの遊び広場のスペースを確保して活動をすることになりました。

【遊びの様子】
 体を動かして遊べる遊具やグループ遊びのできそうな遊具を準備して、子どもが自由に遊びを選べるようにセッティングしました。場所の都合で、ダイナミックな運動はできません。遊びで人気のあったものは、風船バレー、集団じゃんけんなどの集団ゲーム、粘土遊び、バルーンアート、ビーズ工作でした。

【支援者について】
 広場には、2歳から小学校高学年までの子どもが毎日平均25人ほど集まりました。ボランティアは臨床発達心理士の埼玉支部会員および近隣支部会員のほか、学生や社会人ボランティアも加わり、総勢100人ほどの人が関わりました。

【子どもたちの変化】
 遊び広場は避難所が閉鎖される31日まで毎日開催しました。当初は遠慮がちに活動していた子どもたちも、回を重ねるうちにスタッフのひざに遠慮なく腰掛けたり、否定的な感情もかまわずぶつけるようになっていました。また避難所に来ている障害児のケアも併せて行いました。
2. 次の避難場所―埼玉県加須市へ

 アリーナは、3月末で閉鎖されることになり、双葉町の町民は次の避難所として、埼玉県加須市にある廃校となった高校が決まり、移動しました。私たちの支援も加須市へと移ります。加須市では、旧高校から近いコミュニティセンターを借りて、原則月2回土日を使って遊び広場の開設をしました。

【支援の変化と子どもの変化】
 子どもたちは4月から幼稚園や学校に通えるようになり、地域の子どもたちとの交流が始まりました。そこで、双葉町の子ども支援に留まらず、地域支援とシフトすることになりました。
 運動量を確保しながらもグループで楽しめるプログラムが提供されました。なかでも人気のあった遊びは、パラバルーン、風船はこび、人間ソリ、新聞紙やぶり、ドッジビーなどです。理科実験のプログラムも提供されました。
 6月になると、遊び広場として体育館を借りることができるようになり、ドッチボールやフットサルなどダイナミックな遊びができるようになりました。参加する子どもも常連さんが増え、支援者からは、それぞれの子どもの特徴が見えるようになってきました。また、子どもたちも困っていることを気軽に話してくれるようになりました。
 そのほか、障害児の地域での適応支援、子どものたちの食の改善に取り組みました。
 地域の福祉サービスを利用しはじめた障害児は新たな生活のリズムができてきて、初期のアリーナ避難所にいたころに比べ、落ち着きを取り戻し始めました。
3. 最後に

 旧高校の避難所に来た子どもも小学校の友達と離れ離れになるといった関係性の喪失体験をしています。それだけに絆の大切さをさらに感じるのか、避難所内の子どもの助け合いが見られました。遊び広場に来ている常連さんのなかには、学業成績は振るわない子どももいます。しかし、個別によく観察してみると身体能力が高かったり、創造的なモノづくりをする子どもなど、それぞれの子どもの得意な面、優れた面が見えてきました。
 今後少しずつ震災や原発の話題が減っていき、人々の記憶が薄れていくかもしれません。そのようななか、安定した行き場の定まらない福島第一原発の避難者の子どもたちの発達を見守り、今から10年から15年後に子どもたちがオンリーワン(only one)の良さを見出して大学進学を希望し、就職して自立していくときまで何らかの応援ができるような息の長い支援システムを構築したいと考えます。また、子どもたちも苦難を乗り越えた体験をばねにフォーアザーズ(for others)の精神を持ち続けてもらいたいと思っています。