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花水木 2013年4月15日の出会いから
できることをしよう

 金太郎さんは、2011年3月11日東北で起きた大震災以降、ある人の人生を理解したいと強く願っている人、理解することで、人間とはどんな存在かを描きだそうとする旅の途中にある人のようだった。

 その花の道をくる人の
 明るい顔の不思議さに
 くぐり抜けてみる花水木・・・・・。

 この季節、花水木を見みるといつも口をついて出てくる、小椋佳さんの歌だけれど、お会いした瞬間は、まさにこの歌のフレーズを、現象として体験したようなそんな不思議さがあった。
 聖学院大学の2号館前、ウッドデッキに彼は、立つていた。白いハナミズキが咲く、デッキの上で、青いシャツを着てすらっと立っている姿は、さわやに美しい感じがした。
なぜだか勝手にそれ相応の年齢の方だと思っていたので「若い方」が立っているのに少し戸惑う。それと同時に、反面、そうでなければいけないんだろうなとも思った。
 後に色々な話をさせてもらいながら、ご自身も決して楽な道のりばかりではない人生を歩まれてきたのだろうことは、察することができた。けれど、そういう過去が今に引きずられていない感じが、いい。過去は、今に、そして未来に影響を与えているのだろうけど、明らかに過去に執着して今を生きている人をみると切なくなるし、ちょっとごめんなさいとその場を立ち去りたくなったりもする。
そういうことを感じさせない潔さが、いいなと思う。
人と出会って、嬉しいのは、良かったなと思えるのは、私の場合、そういう人との出会いだろうと思う。
過去は思っても、過去に執着しない生き方は、難しい。

 2011年3月11日、東北地方を襲った震災という出来事は、ある面、人々に過去に執着することを強いる。震災後の光景を忘れてはいけないと、強いる。その場で生きて暮らしてきた人々だけでなく、その光景の生々しさを知らない人間にもだ。そして、だれでもが当たり前のように震災のあの日を忘れてはいけないと、呪文のように繰り返す(忘れないで、と当事者がいうのと、忘れてはいけない出来事なのだと抽象化される言葉の質感は違う)。
口に出さずとも、決して忘れない出来事はあるであろうし、決して忘れないと誓うことだってあるだろう。しかし、それは、究極のところその人だけの思いである。一瞬にして地の底が抜ける、震災のようなできごとだったからこそ、一人ひとりのそれぞれの思いに共感できる多くの人々がいた、ということだ。
忘れるべきでない、と強いられるのは息苦しい。
であるが、共に生きる人々から、「あなたのその思いは、私自身が今、感じているこの思いと同じかもしれない」、と手を握ってもらえる瞬間は、悲しみや不安から、そして、過去に執着して自分を自分で許そうとしない自分から、ほんの束の間、解放される瞬間であるだろう。
人と出会い語ることに、意味があるとすれば、その瞬間を積み重ね、過去を抱きつつ、過去に執着せず、今この瞬間を地に足をつけて生きることがいい、辛くても楽しい、と伝わるから、ということではなかろうか。

その人にとって、大切であるけれども、思いのままにはいかない対象、
心配で心配で、愛おしくてしょうがない対象、
そうであればあるほど、人は、その対象に執着するものだろう。
その対象を失ったと、失うかもしれないと感じたら?
これまでの自分とその対象との関わりが、次からつぎへ現れては沈み、沈んでは現れて、許されてはいけない自分をまず一等最初に発見することになる。後悔と言われる感情と共に。それは当たり前といえば当たり前の結果なのだと思う。けれど、見事までにそんな筋書きにまんまと没入し、人生の物語を描くのもまた人間が文化歴史的存在であることの証明でもあるのだろう。
 観客の視点とは、そんな人間の哀しい物語の構造を読み解き、物語に違った筋道(希望)を書き加えられるきっかけを与えられるかもしれないということでもある、のではないかと思う。

 立ちすくむ人のこころには
 押し花にした思い出が
 繰り返し咲くか花水木・・・・・。


 何とはなしに心に残し口ずさんできたこの歌に込められた心情が、腑に落ちたような気がした。
(by ゆた)

(文献紹介)
姜尚中(2013)心 集英社

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